Nakadomari Lab.

ミュージシャンNakadomariの公式ウェブサイト

ザック・バラン第22回:仮面

人との意思疎通は、通じていないことを前提とした方がいいし、僕たちは幼い頃そうしていたんじゃないか。

通じないからこそ悩んだり、言葉を探したり、言葉でない表現を探したり、それに疲れたりしていたんじゃないか。

僕の目には、たくさんの人が人を見て喋っていないように映る。大勢が人の面ではなく、その肩の向こう側の遠くに見える「話し相手」という仮面に向かって喋っている。

なんとなく、都会であればあるほどそうだと思う。

たとえばクレーム。人に怒ったり、文句を言ったりするのはたとえそれが正当な理由だとしても、本来は容易いことじゃない。とても体力を使うはずだし、言う相手のことを考えたらいったん心を落ち着けて表現を選ぼうとするはずだ。

それが、都会では歯止めがきかないかのようにあちらこちらで怒りが飛び交う。なぜそんなに怒るのだろう。なぜそんなに怒鳴るのだろう。

僕が沖縄の人だからかもしれない。別に地元を持ち上げるというわけじゃなく、沖縄の人はあまりクレームを言わない。「まあいっか」みたいな感じで終わる。

だから、僕は大阪に来たころは飲食店で出てきた料理がちょっと変だとか、出てくるまでが遅すぎるとかでブチ切れる人を普通に見かけるから、とても怖かった。

クレームは仮面に怒っている。「相手」の仮面はその場限りの関係で、お店や企業という看板のペンキが塗りたくられている。だからなんでも言えてしまう。それは電話でも同じだ。

でも、仮面に話しかけているのはクレーマーだけじゃない。さっきも言った通り、僕にとっては多くの人がそうなんだ。逆にいえば、僕は仮面には話さない。

おかしなことに、仮面に話す人は仮面を自ら被るのが好きだ。いろんな言説、いろんな地位、いろんな服、いろんな評価で仮面をつくりあげ、そこに人々が注意を向けるように自然と促している。

僕はたぶん、そういったことに興味がないんだと思う。というか、それが下手だ。

自慢でもなんでもなく、人の仮面の下をさらっと見透かしてしまう。いや、見えてしまうと言った方がいい。だからしんどい時がある。仮面を剥ぎ取ったら、残念ながら虚しさ、惨さしか残らない人もいるから。それが見えてしまう相手とは僕はうまく話せない。

真実は輻輳する。いろんな線路に乗っかって、真実はやってくる。どの線路からその人を見るか、または上から見るか、下から見るかで変わる。

仮面が真実になることもある。真実を絶対的に信じるやつはみんな馬鹿に違いない。

僕の真実は仮面に話さないことだ。

僕の真実は仮面を被らないことだ。


コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。