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ザック・バラン第21回:幸せの濾過

幸せになりたいとか、いまは幸せだとか、逆に自分は不幸だとか考える時、その「幸」は世間や社会の影響を受けている。

僕たちはややもすれば、幸せになることで誰かが不幸になっていることを忘れてしまうことだってある。そして、誰かの不幸、たとえば憎い人の死が、憎んだ人にとっては幸せという事実も厳然として横たわっている。

幸せを「求める」人は、幸せを考えようとはしない。

自分にとっての幸せは何か。それは考えることじゃない。自分に問うことだ。たいていの場合、問う段階までいかず、既に袖に隠した答えを自らに見せびらかす。直向に幸せになろうとする人たちは頭なんて使いやしない。馬鹿みたいにひとを踏みつけ、そのことすら忘れて恍惚に溺れている。

どういう経緯かはここでは置いといて、僕は「幸・不幸」という対立関係に幼い頃から違和感がある。

僕の幼少期の話をしたら、誰だって「かわいそう」と思うだろう。でも僕はその中で恐れや悲しみと同時に何か得体のしれない、幸せとは言わないが、少なくともポジティブな感情も抱いていた。

つまり、幸と不幸は重なることもあるし、どちらかの中に一方が含まれていることだってある。

幸せばかり求める人はそれを忘れている。

痛みを享受することを忘れている。

一週間前くらいにBBCのアーカイブ放送で「物理的な痛みを感じられない人の存在」について知った。ある種の疾患で、痛みを感じられないから体に傷がついても放置して悪化することがある。当事者は「体の痛みがわからないと、心の痛みがわからないこともある」と言っていた。たとえば転んで傷ついている人を見て、自分のことのように哀れんだり共感したりすることがないわけだから。

痛みを感じられることは、そう考えると恵まれている。幸せとまでは言わなくても、恵まれている。

痛みを感じられるのに、それを無視し続けてどこぞのお偉いさんが流布した「幸せ」を追求する人は、僕にとっては陳腐に映る。僕は陳腐な生き方はしたくない。

痛みは幸せという概念を濾過する。

「幸せ」にはマス・メディアの情報、他人の植え付け、本から得た知識など様々な要素が絡んでいる。それらをひとつずつ客観視、つまり濾過していくために痛みが役立つような気がしている。

だから僕は痛みを大切にする。

わけのわからない幸せは、何枚もの痛みのフィルターを通してやっと心にやってくる。


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